ファーティマ朝と十字軍|シーア派王朝とキリスト教勢力の対立

十字軍時代の王朝解説「ファーティマ朝」編

この記事ではファーティマ朝と十字軍の対立について解説しています。異教徒との衝突やシーア派王朝の運命、エルサレムを巡る抗争に注目し、ファーティマ朝の歴史と影響を詳しく探っていきましょう。

ファーティマ朝と十字軍|シーア派王朝とキリスト教勢力の対立

エジプトを拠点としたファーティマ朝は、10世紀から12世紀にかけて繁栄したシーア派イスラム王朝です。この王朝は地中海東岸地域を支配し、エルサレムを含む重要な聖地を巡って十字軍と激しい争覇戦を繰り広げました。イスラム世界における少数派のシーア派が築いたこの王朝は、スンニ派のカリフを擁するアッバース朝と対立しながらも、強大な軍事力と文化力で一時代を築き上げました。この記事では、ファーティマ朝の歴史と十字軍との対立がもたらした影響について解説します。

 

 

ファーティマ朝とは

ファーティマ朝は909年に北アフリカで建国されたシーア派のイスラム王朝です。イスラム教の預言者ムハンマドの娘ファーティマの名を冠したこの王朝は、北アフリカからエジプト、シリア、さらには紅海沿岸地域にまで支配を拡大しました。特に、969年にエジプトを征服し、新たな首都カイロを建設したことにより、ファーティマ朝は勢力の頂点を迎えます。

 

ファーティマ朝は、宗教的にはシーア派イスラム教を掲げ、スンニ派のアッバース朝と対抗する存在でした。また、学問や文化も保護し、アズハル大学を設立するなど、文化の中心としての地位を確立しました。こうして、シーア派の強力な政権がイスラム世界で権勢を誇る中、ヨーロッパからの脅威である十字軍と対峙することになるのです。

 

ファーティマ朝の首都カイロは商業や学問が栄えた都市であり、カリフは文化の庇護者として名を馳せていました。

 

ファーティマ朝の十字軍運動への関与

11世紀末にキリスト教勢力がエルサレム奪還を目指して進発した十字軍は、イスラム世界に大きな衝撃を与えました。ファーティマ朝が支配していた地中海東岸地域は、十字軍の主要な標的であり、とりわけエルサレムは双方にとっての宗教的な要地とされていたのです。

 

聖地を巡る対立

ファーティマ朝は1080年代後半にエルサレムを奪回していたため、十字軍の到来によって再びこの地を守る必要がありました。1099年、第1回十字軍がエルサレムを包囲し、数週間にわたる激しい戦闘の末にエルサレムは陥落してしまいます。この結果、ファーティマ朝は大きな痛手を受け、エルサレムはキリスト教勢力の支配下に置かれることとなりました。

 

十字軍のエルサレム占領後も、ファーティマ朝は聖地を取り戻すために何度も軍を派遣し、交渉や戦闘を通じてキリスト教勢力に対抗しました。このようにして、ファーティマ朝は十字軍との抗争を続ける中で、シーア派王朝としての誇りと宗教的な使命感を守り抜こうとしたのです。

 

アッバース朝との協調

イスラム世界の中でもシーア派であったファーティマ朝は、スンニ派のアッバース朝と度々対立していましたが、十字軍が現れると状況が変わります。異教徒である十字軍がイスラムの聖地を脅かす中、ファーティマ朝とアッバース朝は共通の敵に対して協力し合う必要性に迫られたのです。宗派の違いを超えた協力関係の萌芽がここで生まれたともいえます

 

ただし、宗派の違いにもとづく対立関係がが完全に解消されたわけではなく、相互不信は残り続けました。

 

シーア派イスラムの遺産

ファーティマ朝が弱体化していく中で、新たに現れた英雄がサラディンです。彼は12世紀後半にエジプトの支配権を掌握し、ファーティマ朝の遺産を引き継ぎつつも、スンニ派としてイスラム世界を再統一しました。そして1187年、サラディンは十字軍からエルサレムを奪還し、キリスト教勢力に対してイスラムの力を示したのです。

 

サラディンのエルサレム奪還は、ファーティマ朝が果たせなかった宗教的使命を達成したともいえる出来事です。こうして、ファーティマ朝が遺したシーア派イスラムの遺産と、サラディンの統一したイスラム勢力の勢力が重なり合い、十字軍への抵抗が続けられることとなりました

 

以上、ファーティマ朝と十字軍の関係についての解説でした!

 

ざっくりと振り返れば

 

  • ファーティマ朝はシーア派の王朝としてエジプトを中心に繁栄
  • エルサレムを巡るキリスト教勢力との激しい争い
  • サラディンによるエルサレム奪還とイスラム世界の再統一

 

・・・という具合にまとめられるでしょう。

 

ようは「ファーティマ朝は十字軍との戦いを通じてイスラム世界に大きな影響を与えた」という点を抑えておきましょう!