モンゴル帝国が12世紀以降に急速に拡大した際、その勢力はアジアから中東まで達しました。フレグ(1218年 - 1265年)率いるモンゴル軍がイスラム勢力と対立する中で、十字軍はモンゴルを利用してイスラム勢力を弱体化させようと考えました。果たして、キリスト教勢力はモンゴルと協力できたのか?そして、モンゴルは聖地争奪にどのように関わったのか?本記事では、モンゴル帝国と十字軍が織りなす第三局の戦いを解説していきます。
モンゴル帝国は13世紀初頭、チンギス・ハン(1162年 - 1227年)によって築かれた広大な帝国です。この帝国はユーラシア大陸を東西に貫く広さを誇り、歴史上最大の連続した領土を持つ国家となりました。そんな広大な領土とともに、各地域での政治や宗教への影響力も非常に大きく、十字軍運動が最高潮に達していた時代の流れにも強く関わってきたのです。
モンゴル帝国はチンギス・ハンによって統一され、彼の指揮のもとで急速に拡大しました。チンギス・ハンは中央アジアやペルシア、さらにはロシアに至るまで攻勢をかけ、優れた戦術と組織力で圧倒的な領土を手に入れたのです。彼の後継者たちも同じく積極的な遠征を行い、13世紀には東は朝鮮半島から西はヨーロッパの境界まで勢力が及んでいました。
モンゴル帝国の支配地域は、アジア中央部から中東、ロシア、東ヨーロッパにまで広がっていました。この広大な領域を分けるため、帝国は四つのハン国(元、チャガタイ・ハン国、イルハン国、キプチャク・ハン国)に分割され、それぞれがチンギス・ハンの子孫によって統治されました。
モンゴル帝国の統治体制は、厳格な軍事力を背景にしながらも、征服地の文化や宗教を尊重するものでした。特に、イスラム圏においては支配者がイスラム教に改宗することで現地の宗教体制との調和を図りましたが、当初の拡大期には激しい弾圧も行われていました。こうした過程で、モンゴル帝国は西アジアにおける第三の勢力として浮上していったのです。
十字軍とモンゴル帝国の関係は、イスラム勢力との対立を背景にして密接に絡み合いました。モンゴル帝国は十字軍とイスラムの双方に影響を与え、特に十字軍側はモンゴルと同盟を結ぶことで、イスラム勢力を制圧しようと試みました。
チンギス・ハンの孫にあたるフレグは、1258年にバグダードを攻撃し、アッバース朝を滅ぼしました。この出来事は、イスラム世界にとって大きな衝撃であり、フレグの軍勢はその威力を示したのです。これにより、十字軍の一部はモンゴルとの協力の可能性を見出し、フレグを味方につけることで聖地奪還を試みようとしました。
モンゴルと十字軍の連携は、特にフレグが率いるイルハン国との間で模索されました。フレグはキリスト教徒の母親を持ち、イスラムと敵対していたため、フランス王ルイ9世などのキリスト教勢力と積極的な連携を探りました。しかしながら、双方の目的は異なり、また地理的な距離のために実現は困難でした。
1260年、モンゴル軍はエジプトのマムルーク朝とアイン・ジャールートの戦いを繰り広げましたが、この戦いでモンゴル軍は大敗を喫します。マムルーク軍によってモンゴルの進撃は阻まれたため、モンゴルとキリスト教勢力の連携はさらに困難になりました。こうして、モンゴルはイスラム勢力に対する脅威を緩めることになり、十字軍が聖地を奪還する夢も一層遠のいたのです。
以上、モンゴル帝国と十字軍の関わりについての解説でした!
ざっくりと振り返れば
・・・という具合にまとめられるでしょう。
ようは「モンゴル帝国の拡大が十字軍とイスラム勢力に新たな局面をもたらした」という点を抑えておきましょう!