1217年から始まった第5回十字軍は、十字軍の中でも異色のエジプト遠征を主目的とした戦いでした。ヨーロッパのキリスト教勢力は聖地奪還を果たせない中、強力なイスラム勢力に打撃を与えるために、当時イスラム世界の中心のひとつであったエジプトをターゲットにしました。教皇ホノリウス3世(1148 - 1227)の招集に応え、ヨーロッパ各国から騎士たちが集結。今回の遠征は、エルサレムではなくエジプトのニレバの要塞攻略を目指す戦略で始まりました。果たして彼らの挑戦は成功を収めたのでしょうか?ここでは、第5回十字軍のメンバーや指導者の戦略、遠征の経緯について詳しく解説します。
第5回十字軍は、キリスト教世界における新たな戦略的遠征でした。この遠征はエルサレム奪還ではなく、エジプトのニレバを攻略し、イスラム勢力の中枢を揺さぶることを目的としました。キリスト教徒が多くの兵を集め、イスラム世界への強いメッセージを送り出すべく結成されましたが、最終的な成功は得られませんでした。
エルサレムを再び奪還することが困難であると判断したキリスト教指導者たちは、エジプトを制圧することでイスラム勢力の補給路を断つことを企図しました。これにより、聖地奪還への道筋が開けると考えたわけです。また、この時点でイスラム勢力は強大であり、直接の対決は大きな危険を伴うものでした。そこで教皇ホノリウス3世はエジプト攻略を発表し、各地に遠征参加の呼びかけを行いました。
この遠征を指揮したのは教皇ホノリウス3世であり、彼の強い意志が第5回十字軍の発端となりました。ホノリウス3世は、教皇権の下での統一した軍隊がイスラム勢力と対峙することの重要性を説き、諸国の王や領主たちに参加を促しました。また、教皇庁はこの遠征が神の意志であると訴え、多くの騎士や兵士が信仰の名のもとに参加する動機を与えられました。
第5回十字軍には、主にフランス、ドイツ、ハンガリーなどのヨーロッパ諸国から多くの騎士や兵士が集まり、総勢約1万人規模の軍勢が編成されました。数としては他の遠征に匹敵する規模であったものの、装備や補給の面では大きな課題を抱えていました。また、参加者の中には富裕な貴族も多く、彼らの資金力が遠征の重要な推進力となりました。
最終的に第5回十字軍は成功を収められませんでした。エジプトのニレバは一時的に包囲され、十字軍は一時的に勝利の兆しを見せましたが、天候悪化による洪水や補給不足などが追い打ちをかけ、撤退を余儀なくされました。このように、天候と補給問題が主な敗因とされます。こうして彼らの宿願であったエジプト攻略は未達に終わったのです。
第5回十字軍には、各国からさまざまな有力者が参加しました。その中でも特に重要な役割を果たした人物たちを紹介します。
アンドレ・ド・モンフェラートは、イタリア北部のモンフェラート家に属する有力な騎士でした。彼は十字軍への参加を決意し、イタリアから多くの兵士とともにエジプトへ渡航しました。戦いの中でエジプト遠征の最前線に立ち、戦術的な指揮を執りましたが、最終的な撤退もやむなく指揮した人物です。
続いてオーストリア公レオポルド6世(1176 - 1230)もまた、第5回十字軍の中心的なリーダーでした。彼はエジプト攻略の難しさを感じながらも、遠征の大義を支え続け、十字軍の意志を貫くために全精力を注ぎました。彼の尽力により一時的な勝利を得たものの、最終的に撤退を余儀なくされる結末を迎えたのです。
一方で、ペラージュ・ガルシア・デ・カステロは、スペイン出身の指揮官であり、カスティリャ王国の騎士団の一員として第5回十字軍に参加しました。彼は宗教的信念に基づき戦いに挑み、エジプト攻略の鍵を握る重要人物の一人でしたが、天候や補給の問題が続き、撤退に至りました。
第5回十字軍は、戦略的には画期的な挑戦でありながら、自然災害や補給不足という予測不可能な問題に直面しました。特に天候の悪化による洪水が、十字軍の進軍を阻む最大の要因となり、エジプト攻略の道が閉ざされることとなりました。この遠征は戦略と環境条件の重要性を示し、後の遠征においても多くの影響を残したとされています。
以上、第5回十字軍のメンバーについての解説でした!
ざっくりと振り返れば
・・・という具合にまとめられるでしょう。
ようは「エジプトを攻略しイスラム勢力に痛打を与える戦略が、自然の猛威で頓挫した」という点を抑えておきましょう!