第8回十字軍(1270年)は、十字軍運動の終焉を象徴する遠征として知られています。フランス王ルイ9世(1214 - 1270)が主導し、北アフリカのチュニスを目指して出発しましたが、想定外の出来事により計画が大きく狂い、最終的には多くの犠牲を出して失敗に終わりました。この遠征にはどのような人物が参加し、どのような問題に直面したのでしょうか?本記事では、第8回十字軍の背景、主要メンバー、失敗の要因について見ていきましょう。
第8回十字軍は、1270年にフランス王ルイ9世が主導し、エジプトを経由せずに北アフリカのチュニスを目指して進軍した遠征でした。この計画は一風変わっており、従来の聖地奪還という目標から逸脱していることでも話題を呼びました。しかしこの遠征がどのような経緯で決定され、結果として失敗に終わったのかはあまり知られていません。
第8回十字軍が派遣された理由の一つに、北アフリカのチュニス攻略によってイスラム勢力の経済基盤に打撃を与えることが挙げられます。また当時、チュニスの王がキリスト教への改宗に関心を示しているという情報が流れ、ルイ9世にとって聖戦の好機が到来したと感じたわけです。さらに、彼にとってこの遠征は病により失敗した第7回十字軍の雪辱戦とも考えられていました。
第8回十字軍は、フランス王ルイ9世自らの強い意志によって招集されました。ルイ9世は強いキリスト教信仰を持っており、熱心な信者として自らも神への献身を体現することを信念に掲げていました。そのため、前回の遠征で敗北を喫したことへのリベンジがその動機にあったことは想像に難くありません。彼の信仰心と決意に共鳴し、フランス貴族や騎士たちが賛同し、彼と共にチュニスへ向かったのです。
第8回十字軍には、フランス国内から1万人規模の騎士や兵士が参加しました。この他にもイタリアのジェノバやピサといった都市からも協力を得ており、強力な軍事力が揃えられました。しかし、この遠征に対する準備不足や想定外の疫病がその規模の大きさに影響を与え、多くの犠牲者を出すこととなります。
第8回十字軍の最終的な結末は惨敗に終わります。特に疫病が猛威を振るい、主力メンバーが次々と倒れることとなり、ルイ9世自身もチュニスで疫病により命を落としました。戦略的にもチュニスでの攻防戦は期待した効果を発揮せず、遠征は莫大な犠牲を払って後退する結果となりました。このような状況から、第8回十字軍は「一筋縄ではいかない」問題に直面していたのです。
この十字軍には、当時のフランスの貴族層を中心に著名なメンバーが数多く参加しました。ここでは特に影響力のあった3人に注目し、彼らがどのような役割を担ったのかを紹介します。
フランス王ルイ9世(1214 - 1270)は、この遠征のリーダーであり、強い信仰心から聖戦を指揮しました。第7回十字軍での失敗に心を痛めていた彼は、神の名のもとに戦うことが自己の使命だと確信し、病気を抱えながらもチュニスを目指しました。しかし現地で疫病に倒れ、遠征の中心を失うことがこの十字軍にとって致命的な打撃となったのです。
シャルル・ダンジュー(1226 - 1285)はルイ9世の弟であり、遠征の主要な指導者の一人です。シャルルは冷静で戦略的な視点を持っていましたが、ルイ9世が没したことで指揮系統が崩れ、軍勢の士気が大幅に低下しました。彼はその後もイタリアのナポリで勢力を伸ばす一方で、この遠征の失敗によりチュニスの攻略を諦める決断を余儀なくされます。
シャルル2世・ド・ヴァロワ(1254 - 1309)は、若き貴族として第8回十字軍に参加しました。彼は勇敢にルイ9世と共にチュニスへの侵攻に挑みましたが、ルイ9世の死と疫病の流行により撤退を余儀なくされました。若き日の経験がその後の政治的活動に大きな影響を与えることとなり、この苦い敗北は彼の人生における転機となったのです。
第8回十字軍は、十字軍運動の終焉を象徴する出来事として語り継がれています。フランス王ルイ9世の信念がもたらしたこの遠征は、過酷な環境や疫病の脅威にさらされ、壮大な期待を抱いたものの残念ながら大敗に終わったのです。この経験がその後のフランス貴族の遠征への意欲を大幅に削ぎ、ヨーロッパの戦争政策に大きな転換点をもたらすことにもなりました。歴史の舞台で聖戦への期待が現実によって打ち砕かれた象徴として、第8回十字軍の失敗は忘れ去られることのない歴史的教訓であるといえるでしょう。
以上、第8回十字軍についての解説でした!
ざっくりと振り返れば
・・・という具合にまとめられるでしょう。
ようは「信念と現実の狭間で破れた遠征」という点を抑えておきましょう!