中世の「十字軍」は、ヨーロッパ全土から集まった兵士たちによって実行された一大遠征でした。その総参加人数は膨大で、各遠征には多様な背景と目的があったのです。本記事では、十字軍がどのように編成され、合計人数がどれほどに上ったのか、さらにどの国から多くの兵士が参加したのかといった点を掘り下げていきます。
十字軍は、キリスト教の聖地奪還を目的とし、信仰に基づく一大遠征でしたが、その兵士の募集は多様な手段で行われました。教皇や聖職者は直接説得を行い、各地で説教や布教活動を通じて多くの兵士を募りました。特に十字軍への参加=「神の赦しを得られる」との教えが広まり、一般の農民から騎士まで幅広い層が自発的に参加したのです。
また、王侯貴族の軍勢もあり、彼らは家臣や従者を引き連れて遠征に臨みました。これにより、十字軍には一般の農民、職人、商人に加え、騎士団や貴族の兵士が多く含まれることになり、ヨーロッパ全土から数多くの人々が集まったのです。
十字軍遠征には、フランスや神聖ローマ帝国、イングランドといった当時の主要国家から多くの兵士が参加しました。特にフランスは、十字軍運動における主要な参加国として知られ、教皇の呼びかけに応じて多くの領主や騎士が遠征に加わりました。
一方で、神聖ローマ帝国からも多くの兵士が参加し、各遠征において規模を増していきました。イングランドもまた、徐々に十字軍運動に加わるようになり、特に三度目の十字軍ではリチャード1世(1157-1199年)が自ら参加し、強力な軍勢を率いて聖地に向かいました。
十字軍遠征は11世紀末から13世紀にかけて繰り返され、合計で9回に及びます。それぞれの遠征には異なる規模と目的がありましたが、当時の史料に基づくと、参加者数は数千から数万人に上るとされています。ここからは、主な遠征の参加人数を解説します。
第1回十字軍は、約30,000人の兵士が参加したとされています。主にフランス、神聖ローマ帝国からの参加が多く、聖地エルサレムの奪還に成功しました。この遠征での成功は、次なる十字軍の出発点ともなりました。
第2回遠征では、聖地奪還の勢いを維持するため、約50,000人の兵士が動員されました。この遠征には神聖ローマ皇帝とフランス王ルイ7世が参加したものの、戦果は思わしくなく、次第に十字軍の士気は低下していくのです。
「王たちの十字軍」と呼ばれる第3回遠征には、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世らが参戦。兵士の数は10万人以上に及び、歴代でも最大規模の遠征となりましたが、エルサレムの奪還はならず、サラディン(1137年–1193年)との講和が結ばれました。
第4回遠征は、エジプト経由で聖地に向かう計画が立てられ、約30,000人が参加しましたが、最終的には商業都市コンスタンティノープルを攻撃する形になりました。この遠征により、聖地への道は遠のき、キリスト教勢力内での対立も深まりました。
この遠征は神聖ローマ帝国やハンガリー王国の支援を受けて行われましたが、エジプトでの失敗に終わります。参加人数は数万人とされていますが、戦果は乏しく、次第に参加者の熱意も薄れていきました。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が指揮を執ったこの遠征は、戦闘を避けた講和によってエルサレムを一時的に回復しました。参加人数は数万人規模で、無血での聖地回復は歴史的な出来事でした。
フランス王ルイ9世による第7回遠征は、約50,000人が参加しましたが、最終的には捕虜として囚われ、莫大な身代金と引き換えに釈放される結果となりました。この敗北により、ヨーロッパの士気は大きく低下します。
再びルイ9世が主導した第8回遠征も、数万人の規模で行われましたが、突如発生した疫病によりルイ9世が戦地で病没。これにより十字軍の衰退が決定的となり、ヨーロッパの勢力は大きな痛手を受けることになります。
最後の十字軍は、わずかな数千人の兵士によって行われ、聖地奪還の望みが絶たれた形となりました。以降、十字軍の遠征は途絶え、イスラム勢力による聖地支配が続くこととなるのです。
以上、十字軍の参加人数とヨーロッパ全土からの遠征についての解説でした!
ざっくりと振り返れば
・・・という具合にまとめられるでしょう。
ようは「十字軍の参加人数は規模と目的で変化」という点を抑えておきましょう!