第5回十字軍の目的と結果|ナイル川の遠征と失敗

十字軍の目的「第5回十字軍」編

この記事では第5回十字軍でのナイル川遠征について解説しています。エジプトの征服を目指し出発した遠征がなぜ失敗に終わったのか、その背景と結果に注目し詳しく探っていきましょう。

第5回十字軍の目的と結果|ナイル川の遠征と失敗

1217年に始まった第5回十字軍は、聖地奪還を目指す十字軍の流れをくみながらも、これまでの遠征とは異なる戦略をとりました。彼らのターゲットはアイユーブ朝支配下のエジプト、そしてその重要な交通路であるナイル川でした。しかし、意欲的な計画にもかかわらず、遠征は痛ましい失敗に終わります。なぜナイル川遠征が行われ、どうして失敗してしまったのか。その目的と背景、そして最終的な結果を見ていきましょう。

 

 

第5回遠征の主要人物

第5回十字軍には、様々な国からの指導者が参加していましたが、特に注目されるのはハンガリー王アンドリュー2世(1177年 - 1235年)、エルサレム総主教のペラジウス、そして神聖ローマ帝国の貴族レオポルド6世です。彼らの信仰と指導力が十字軍を支えていましたが、計画は思い通りには進みませんでした。

 

アンドリュー2世

ハンガリー王アンドリュー2世は、十字軍遠征への参加を誓いましたが、思いのほか早期にヨーロッパへと帰還しました。彼の早期帰還は軍の士気を低下させ、後の遠征に暗い影を落とすことになります。

 

ペラジウス

エルサレム総主教ペラジウスは第5回十字軍において重要な役割を果たし、積極的に遠征を指揮しました。彼はエジプト攻略に固執し、ムスリム側との交渉を拒否するなどの強硬姿勢を示しました。

 

レオポルド6世

オーストリアの貴族であるレオポルド6世は十字軍の要として兵士を率い、士気を高めました。しかし、ペラジウスの方針に反対する意見もあり、意見の対立が続きました。

 

第5回遠征の概要

遠征の目的

この第5回十字軍の目的は、聖地エルサレムを間接的に奪還するためにエジプトの拠点を制圧することでした。というのも、エジプトのアイユーブ朝が強大な勢力を持ち、エルサレムを支配下に置いていたためです。ナイル川沿いのダミエッタ(現在のエジプト北部)を攻略し、その後カイロに進軍することで、アイユーブ朝の支配を揺るがそうとする戦略が立てられたのです。

 

遠征の経過

1218年、十字軍はエジプトのダミエッタに到着し、攻略を開始します。ダミエッタは重要な港であり、ナイル川流域の交通の要でしたが、その攻略は容易ではありませんでした。戦闘は数か月にわたって続き、十字軍は厳しい抵抗に直面します。1219年、ようやくダミエッタを制圧したものの、次なる目標であるカイロへの進軍を前にして十字軍は膠着状態に陥ります。

 

一方でアイユーブ朝は、十字軍のカイロ進軍を阻止するため、交渉を申し入れました。しかし、総主教ペラジウスは交渉を拒否し、戦いの継続を主張します。この強硬姿勢は、当初の目的を見失い、軍内での不満も高まることとなりました。1221年、十字軍はナイル川を利用してカイロへと進軍を開始しますが、逆にアイユーブ朝軍に包囲される形となり、退路を断たれてしまうのです。

 

遠征の結果

最終的に十字軍は退却を余儀なくされ、ナイル川の洪水によって追い詰められます。やむを得ずアイユーブ朝と講和を結び、エジプトから撤退しました。この遠征での主要都市の喪失と多大な損害は、キリスト教勢力にとって少なくない打撃となったのです。

 

この後、十字軍の目標はエジプト攻略からエルサレム奪還に再びシフトすることになります。

 

遠征の影響

第5回十字軍の失敗は、エジプト攻略という間接的な手段が結果的にうまく機能しないことを証明しました。また、十字軍内での意見の対立や指揮系統の混乱が、成果を得ることなく帰還を余儀なくされる原因となったといえるでしょう。この失敗は、後に控える十字軍の遠征計画にも大きな影響を及ぼし、キリスト教世界にとって痛手から立ち直るまでに時間を要したのです。

 

以上、第5回十字軍の目的と結果についての解説でした!

 

ざっくりと振り返れば

 

  • エジプトのダミエッタ攻略を目指すも、内部対立で前進不可に
  • ナイル川沿いでの軍事的失策
  • アイユーブ朝との交渉を拒否し、撤退を余儀なくされる

 

・・・という具合にまとめられるでしょう。

 

ようは「第5回十字軍はナイル川遠征による失敗で挫折した」という点を抑えておきましょう!