マンスーラの戦い|フランス王ルイ9世、捕虜となる

マンスーラの戦い

この記事では、第7回十字軍における「マンスーラの戦い」と、その結果としてフランス王ルイ9世が捕虜となった経緯について解説しています。戦闘の経過や戦後の影響に注目し、十字軍運動の転機について詳しく探っていきましょう。

フランス王ルイ9世、捕虜となる「マンスーラの戦い」

十字軍時代には多くの戦いが繰り広げられましたが、1249年の「マンスーラの戦い」は、十字軍にとっての大きな転機となった戦いでした。第7回十字軍を率いたフランス王ルイ9世(1214-1270)は、この戦いで捕虜となり、十字軍運動の行方に影響を与えることとなります。フランス王自らが捕らえられたこの歴史的な戦いは、どのようにして展開され、十字軍の命運にどのような変化をもたらしたのか。さっそく詳しく見ていきましょう。

 

 

戦争の前史

第7回十字軍は、エルサレムの聖地を再びイスラム勢力から取り戻そうとした十字軍運動の一環です。エジプトを制圧することでイスラム側の勢力を削ぎ、エルサレム奪還を有利に進めるという戦略が取られました。当時、聖地はアイユーブ朝の支配下にあり、十字軍側にとってこのイスラム勢力が強力な敵対者となっていました。

 

ルイ9世はこの第7回十字軍の指導者として名乗りを上げ、エジプト攻略を目指して多くの騎士や兵士を従えて出発しました。彼の目的は、エジプトを抑えることで、イスラム勢力の基盤を揺るがし、聖地奪還への道を切り開くことだったのです。

 

戦争の原因

十字軍側がエジプト攻略を目指したのには、イスラム勢力を支配する要となるエジプトを抑えることで、聖地奪還の成功率を上げようとした背景があります。とりわけ、ナイル川河口に位置するダミエッタは重要な攻略ポイントとされ、十字軍の兵士たちはこの地を制圧することでイスラム軍への圧力を強めようとしました。

 

エジプトのアイユーブ朝もまた、フランス軍がエジプトに攻撃を仕掛けてくることを想定し、軍備の増強と防衛戦略を整えていました。こうして、ナイル河口近くでの戦いは不可避なものとなっていきました。

 

戦争の経過

1249年、ルイ9世率いる十字軍はダミエッタを占領することに成功し、勢いに乗って南進を開始しました。しかし、ナイル川沿いで進軍する中、アイユーブ朝の激しい抵抗を受け、補給線の確保にも苦戦を強いられました。

 

ナイル川の氾濫や補給の不安定さが、十字軍の進軍を阻んでいました

 

続く1249年から翌1250年にかけて、十字軍とイスラム軍の主力がマンスーラ付近で激突します。イスラム軍はその機動力と防衛戦略を生かし、十字軍に対して逐次攻撃を行いました。こうして、十字軍は物資不足と病気に悩まされながら、じわじわと戦力を削られていったのです。

 

戦争の結果

1250年4月6日、ナイル川を渡ろうとした十字軍は、激しい反撃を受け、最終的には撃退されました。ルイ9世自身も包囲され、最終的に捕虜となるという結果に。この捕虜となった事件は、ヨーロッパに大きな衝撃を与えました。

 

アイユーブ朝はルイ9世を解放する条件として、多額の身代金を要求しました。ルイ9世はフランスの財政を使ってこれに応じ、釈放されましたが、彼の解放はフランス国内にも影響を及ぼし、重い財政負担を残すこととなります。この捕虜事件を通じて、十字軍運動の限界が改めて浮き彫りとなったのです。

 

戦争の影響

ルイ9世の捕虜事件は、十字軍運動への信頼を大きく損なうものでした。聖地奪還の夢を叶えるための戦いが、フランス王自らを犠牲にした敗北という形で終わったことは、十字軍運動の将来にも暗い影を落としました。

 

この戦いを機に、ヨーロッパ内では十字軍への支援が徐々に冷めていき、支援体制も縮小の一途を辿りました。ルイ9世は釈放後も聖地への執着を捨てることはありませんでしたが、彼の再挑戦は失敗に終わり、最終的に十字軍運動も終焉を迎えました。

 

このように、マンスーラの戦いは単なる敗北以上の影響をもたらし、ヨーロッパ内での十字軍運動そのものの意義を再考させる契機となったのです。

 

以上、十字軍戦争の一つマンスーラの戦いについての解説でした!

 

ざっくりと振り返れば

 

  • ルイ9世が指導する十字軍がエジプトを目指す
  • マンスーラでの激戦により、ルイ9世が捕虜となる
  • 十字軍運動全体の信頼低下と支援の縮小

 

・・・という具合にまとめられるでしょう。

 

ようは「ルイ9世の敗北が十字軍運動の限界を浮き彫りにした」という点を抑えておきましょう!